September 13, 2010

ビル・モンロー生誕100年へ、原点探訪

 今日2010年9月13日は、ビル・モンローが生まれた日から99年になります。……そう、そして来年の今日は「ビル・モンロー・センテニアル(生誕100年)」です。米国では先週末から記念イベントがはじまったようです。今月末のIBMAカンファレンスでは「ビル・モンロー・センテニアル」をテーマにサム・ブッシュが基調演説をするそうです(ムーンシャイナー1月号掲載予定)。
 むかしはそんなこと、考えませんでした。モンローが最初に日本に来たとき、つまり1974年12月、あのとき彼は63歳だって、……みなさんあのとき、彼の歳のことを考えましたか? あのすごい威厳と自信に満ち、元気一杯だったモンローが60代だなんて、実感できましたか? そして今、自分がそんな歳に近くなり、生きているときに「ビル・モンロー生誕100年」を迎えるなんて!!
 わたしも当時の彼の年齢に近くなって、振り返ってモンローの人生を観れば、……われわれが愛してやまない音楽を生み出した人のそれは、あまりに凄い! もちろん、今も元気な86歳、アール・スクラッグスの音楽的な貢献/功績は、モンローよりも大きいかもしれません。けれども、ビル・モンローというアイコンがブルーグラスという金科玉条を守り、率いてきたことは、歴史的に紛れもないことです。そして、その「ブルーグラス」という言葉の下に、世界中の人たち、もちろん日本中の人たちも結びついて、ひとり、ふたり、さんにん……、縁も所縁もなく、もちろん利害関係もない人たちがいっしょに、ブルーグラスという仕合わせを分かちあっていることに、間違いはないはずです。
 そんな仕合わせを、もっと大きくしませんか? いくら頑張ってもたかだか100年……、人生は一度きりです。「youtube」や「amazon」などで、音楽のきれっぱしに満足していては、あきません。グローバルという「金融」と「政治/経済」の欲に支配/左右された一般社会の中で、子供たちや孫たち、そしてもちろん、自分のために……、とっておきの幸せを創り出しませんか?

 以下は、ビル・モンローの誕生から1946年9月の、いわゆる「オリジナル・ブルーグラス・バンド」による「ブルーグラスの誕生」までの詳細を、ビル・モンローの他界から10年、そしてブルーグラスの誕生から60年を経た2006年に、ムーンシャイナー誌9月号と10月号で紹介したものの引用(修正/削除)で、ムーンシャイナー誌2010年2月号のビル・モンロー特集「ハイロンサムの誕生と背景」に付随したものです。
ムーンシャイナー誌:http://www.bomserv.com/MoonShiner/index.html
年間契約(12冊)\6,000-、単冊(送料込)\602-
お問い合わせ:渡辺三郎 fiddleandbanjo@nifty.com
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ウイリアム・スミス・モンロー
 ビル・モンローは1911年9月13日、ケンタッキー州オハイオ郡ロジーン生にまれた。「バック」とか「J.B.」と呼ばれた父はジェイムズ・ブキャナン・モンロー(1857/10/28-1928/1/14)、その名前は遠縁に当たる15代アメリカ大統領ジェイムズ・モンロー(1758-1831)から名づけられたのだという(ちなみにビルは1947年に生まれた息子にジェイムズと名付けている)。そのモンロー家はスコットランドのハイランド地方のマンロ家(Munro)の出身で、1650年にバージニアに入植したアンドリュー・モンローを祖先に持つという。
 母はメリッサ・モンロー(1870/7/12-1921/10/31)、ダッチ(ネーデルランド=オランダを含む)系のヴァンディヴァー家からやってきた。父方のスコッチと母方のダッチは共に16世紀以降の宗教改革によるプロテスタントの牙城でもあったという。ビルの伝統的な宗教観を伺うことができそうだ。
 なおビルは、1936年に生まれた娘にも母と同じメリッサと名付けており、ふたりの子どもに両親と同じ名前を名付けるという、1952年に録音された名曲"Memories of Mother and Dad"のすばらしさとあいまって、10歳で母を、16歳で父を亡くした彼の両親に対する強い思いが感じられる。

 多くの(貧乏にまつわる苦労話がつきものの)ミュージシャン伝記の期待に背くのだが、モンロー家は650エーカーの土地と3ヶ所の製材工場を持っており、当時のケンタッキーの田舎の標準では裕福なクラスに入る家庭だったという。といっても、現在修復されたモンローの生家、それぞれに狭い4部屋ほどの平屋、6人の兄弟と2人の姉妹の10人家族が暮らすには窮屈だったろう。
 ロジーンはケンタッキー州といってもスコッチ・アイリッシュ(スコットランドのロウランド地方から北アイルランドを経由してアメリカに渡った移民)の深い伝統が隔離されたアパラチアのイースタン・ケンタッキーからは離れたウェスタン・ケンタッキーに位置している。ただ、モンロー家にはスコッツ・アイリッシュ系の伝統音楽がしっかりと伝えられていた。父バックはダンスの名人だったといい(父親譲りと思われるケンタッキー・バックステップはビル・モンローがステージでよく真似たものだ)、母メリッサはハーモニカ、ボタン・アコーディオン、そしてフィドルやマンドリンなどを弾き、オールドタイム・ソングやバラッドを歌ったという。ロジーンの古老の証言によると、ビルが生まれる前、足のむくみの痛みに悩まされていたメリッサは、「マンドリンを弾くと足の痛みがなくなるのよ」と語っていたという。

少年期のコンプレックスと虐待……
 ビルは8人兄弟の末っ子、斜視のため静かで内気な幼少時代だったという。斜視と弱視のため、人から笑われたりからかわれたため、「見知らぬ人が家にやって来るのが見えると一目散で納屋に隠れた」とビルは後年に語っている。また、兄弟で通った学校でも黒板に書かれたシェイプノート(音譜の簡単な表記法でゴスペル・ソングの普及に大きく寄与したもの)が見えず、家に戻ってから兄たちから学んだという。黒板のシェイプノートが見えなかったことが、ビルの耳と音楽感性を磨いた、なんて、うがち過ぎだろうか……? またビルは、子供時代に、「(17歳年上の次男)スピードが酒を飲むたびに殴られ虐待されていた」という衝撃的な話をブッチ・ロビンスに明かしている。

 末っ子のビル、長男ハリーとは21才も年が離れている。ハリー(1890-1954)も、次男スピード(1894-1967)も、そして三男のジョン(1896-1962)も、フィドルを弾いた。まだレコードやラジオもない時代、音楽は家庭娯楽の重要な要素だった。そして、四男バーチ((1901-1982)とは10才、五男のチャーリー(1903-1975)とは8才も年が離れているとはいえ、ふたりの兄は弟ビルに楽器を持たせてバンドを組みたいと考えるようになる。花形楽器であったフィドルをバーチに、ギターをチャーリーに取られた末っ子ビルに残されていたのは当時、女性向きの楽器として扱われていたマンドリンだった。このとき、ビル・モンロー8才、弦が4本だけしかないマンドリンを手にする。兄たちがうるさいと言って弦を与えなかったのだという。のちに大男に成長するビルの手に小さなマンドリンがにぎられた。
 そんな虐待と、斜視や弱視のコンプレックスからと考えられる青年期以降のかんしゃくや突発的な暴力が、かなり後まで、ビルについてまわったという見方もある。少年期から青年期にかけての重労働で作り上げた見事な体を武器に、かなり荒っぽい大人に育ったとみるのは言い過ぎだろうか。その短気がビル・モンローのブルーグラス、ドライブの源泉のひとつでもあるという、とわたしには感じられてならないのだが……。
 ビルは公式のインタビューで、「11歳で(学校をやめて)働きはじめたんだ。分かるかい?遊ぶ時間なんてなかったし…、夜は寂しかったんだ。それが私の音楽に込められているんだ」と語っている。その前年、1921年に42歳で自分を生んでくれた母を亡くし、すでに成長した兄たちは「ジャズ・エイジ」のはじまりを謳歌するシカゴなどの大都会にあこがれたのだろうか、つぎつぎと家を離れ、モンロー家には働き手としてバーチとチャーリー、そしてまだ小さなビルしか残っていない。
 母が亡くなった11歳から父が亡くなる16歳まで、ビルは父から仕事の厳しさを学び、その後もその厳しさを自分に課し守りつづけ、仕事、つまりバンドにもその厳しさを求めた、と考えられる。18歳でロジーンを離れ、シカゴ郊外で重労働に従事したときも、折からの大恐慌で職を失った兄たちに代わって、末っ子であるビルが4年間、家族の収入を支えたという。モンローは常に「ハード・ワーク」を口にし、ブルーグラス・ミュージシャンには「バッターボックスに向かう」心境を求めつづけた。
 虐待され、コンプレックスの塊だったビルを優しくかばってくれたのは母だったろう。が、その最愛の母をビルは多感な10歳のときに亡くしてしまった。16歳で父が亡くなり、兄たちも現金収入を求めて都会に出て行った後、ひとりロジーンに残ったビルは少年期から青年期に向かって、頑強になっていく体とともに、父や兄たちに負けないタフな精神力を身につつけていく。そのかたわらには、母方の「ペンおじさん」がいた。ビル・モンローの代表曲となる1950年録音の名曲"Uncle Pen"、その人である。

アンクル・ペンとアーノルド・シュルツ
 ビルは叔父である母の1才年上の兄、「アンクル・ペン」と呼ぶペンデルトン・バンディバー(1869-1932)のキャビンに移り住むことになる。「わたしは生まれ育った家に帰ろうとしている。しかし、丘に向かう曲がりくねった山道を通り抜けても、昔輝いていた窓に、今はもう明かりが灯っていない……」というリフレインで知られる1950年2月録音の"On My Way Back to the Old Home"は、まさにペン叔父さんのキャビンからモンローの生家へ、エルサレム・リッジをひとり寂しく歩く少年の影を歌う。
 ペン叔父さんが弾くフィドルは近郊では知られた腕前、なんといっても花形楽器、そして感情を揺さぶる楽器でもある。少年は憧れのフィドル・チューンを体の中に沁み込ませたことだろう。"Jerusalem Ridge"をはじめ、後年、モンローのマンドリンから流れ出る数々の美しいオリジナル・メロディーはペン叔父さんのキャビンで身に付いたものだと、いつもロジーンを訪ねると強く感じる。

 母が亡くなってからシリアスに音楽に取り組みはじめたビルは、ペン叔父さんのフィドルにギターを付けはじめる。フィドルのバックアップは、オールドタイムなリズム感とメロディー感覚を養う最高の方法だ。そんなある日、家族やペン叔父さんとともにロジーン周辺の集会やダンス会場に行ったとき、ビルはもうひとり、大きな影響を受けるミュージシャンと出会う。黒人ブルース・ミュージシャンのアーノルド・シュルツ(1886-1931)である。
 アーノルドはフィドルとギター奏者で、石炭労働者であり、あちこちのダンスなどを巡るストリート・ミュージシャンだったという。そのすばらしさは伝説的で、白人黒人の別なくハウス・パーティーに招かれたり、白人ばかりのストリングバンドにたった一人の黒人として参加し、G, C, Dのコードしか知らないローカル・ミュージシャンにいろいろなコードを教えたという。アーノルドはまた、現在のフィンガーピッキン・ギターのルーツ「トラビス・ピッキン」の原点であるとする説もある。
 12才ではじめてアーノルドのギターに接したビルは、後にそのスムースなコード移動やブルース奏法に驚嘆したと述べている(ビルはアーノルドがフラットピックで弾いていたという)。後年、ニューポート・フォーク・フェスで黒人ブルース・ギタリスト、ミシシッピ・ジョン・ハートのワークショップを通りがかったビル、当時のブルー・グラス・ボーイズのギタリスト、ピーター・ローワンをあわてて呼び留めて、「これ、これなんだ!! わたしが子供の頃に聞き覚えたのは。よーく聞いておくんだ」と諭したと、ピーターが話してくれた。
 ビル・モンロー&ヒズ・ブルー・グラス・ボーイズを結成したのち、1939年のグランド・オール・オープリ・デビューや、1940年の最初の録音に、ビルがマンドリンではなくギターを手に、強烈なビート(ドライブ)を創りながら"Muleskinner Blues"を唄ったことは、明らかにビル・モンロー音楽の本質におけるアーノルド・シュルツ、黒人ブルースの大きな影響を証明するものだと思う。
 ビル・モンローの音楽観は、母メリッサ、そしてペン叔父さんを経由してアーノルド・シュルツによって、ロジーンでの少年期から青年期にかけて醸成されていったとわたしは考える。1950年代に入ってからビルのブルーグラスに「ハイロンサム」という、強烈な孤高の寂寥感と内に秘めた激しい一方通行の暴力的とまで感じられるような感情のほとばしり、おそらくビル・モンローの音楽(感性)はこのロジーン時代に形成されたのではないだろうか……。

モンロー・ブラザーズ
 1929年、18歳になったビルは兄たちの後を追って都会に出る。大都会シカゴの東、アル・カポネとアンタッチャブルが闘っている時代、ビルは4年間ちかく、シンクレア・オイル社での重労働をもくもくとつづける。頑健な体と根性は工場で毎日、150ポンド(約70Kg)の樽に多いときは2000個、油を詰めていく間に養われたのだろう。ちょうど大恐慌のとき、ほかの兄弟たちに職はなく、ビルが家計を背負って働きづめたという。「5年あまり、毎日働いて手に入れたのは40ドルのマンドリンと2着のスーツだけだった。俺は正しいことをしているんだろうか?とよく考えた。たぶん正しかったろう。家族を見放したりすることは正しくないからね」と、ジム・ルーニーの著書『Bossmen』にビルは語っている。兄弟の力関係の変化が推理できる……?
 そんな中、バーチ、チャーリー、ビルの3兄弟は楽しみとして、また人に乞われて音楽をつづけるが1932年、シカゴWLS局の看板ショー『WLSバーンダンス』が企画した「バーンダンス・ツアー」で2年あまり、ダンサーとして中西部をツアー、そして1934年にはチャーリーとともにギター&マンドリンのブラザー・デュオ、モンロー・ブラザーズを結成し、ミュージシャンとしての活動をはじめている。ビル・モンロー23歳、当時ようやく南東部でエンターテイメント・ビジネスが成熟しようとするとき、絶妙のタイミングだろう。
 モンロー・ブラザーズは1936年2月17日、ノース・カロライナ州シャーロットでRCAビクターのブルーバード・レーベルに初録音を残している。このとき以降、われわれはビル・モンローの音楽に、そしてその人となりに直接触れることができる。そう、ビル・モンローのすべての公式録音は現在、CDとして発表されているのだから……。

ヒズ(彼の)ブルー・グラス・ボーイズ
 1938年、60曲の録音を残して兄チャーリーと烈しい喧嘩の後、たもとを分かってビルは自身のバンド結成に向かう。ここから1945年12月8日にアール・スクラッグスが加入するまでの詳しい事情はビル・モンローが亡くなった翌年、本誌「ビル・モンロー再訪」という連載で(97年1月号~99年9月号)24回にわたり詳述紹介している。また、1946年9月のオリジナル・ブルーグラス・バンドの初録音、いわゆる「ブルーグラスの誕生」の日についてのアール・スクラッグス・インタビューをその日から50年後、奇しくも、その9日にビル・モンローが他界する1996年の9月号で特集している。
 ここでは初期ブルー・グラス・ボーイズについて、その重要な出来事を年表で紹介しておこう。
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●1938年、アーカンソー州リトル・ロックで一時的にケンタッキアンズと名乗り3ヶ月間活動。解散後、ジョージア州アトランタで新聞広告を出しモンロー・ブラザーズ風デュオができるギタリスト、クリオ・デイビスを雇う。
●1939年、クリオのほかに、フィドラーのアート・ウートンと、ボーンズ(パーカッション)とジャグを吹く黒塗りのコメディアンのトミー・ミラードを加え、ブルー・グラス・ボーイズと名付けて活動をはじめている。春にはトミー・ミラードに代わってベーシストのエイモス・ギャレンを加え、同年10月、グランド・オール・オープリのオーディションに臨む。そのサウンドに驚いた名物司会者のジョージ・D.ヘイは、「あなたがオープリを離れることがあるとすれば、それは自分自身で辞めていくときだ」と終身雇用のお墨付き、そして"Muele Skinner Blues"での衝撃的なデビューで一躍スターになる。
●1940年、RCAブルーバードに初録音。メンバーはクライド・ムーディー(g)、トミー・マグネス(f)、ビル・ウェストブルック(bs)。
●1941年10月、クライドに替わってピート・パイルをギターに、RCAブルーバードに2回目の録音、同レーベルに16曲を残している。この後、音楽家組合のストと第二次世界大戦で、しばらく録音はない。
●1945年2月13日、録音が再開され"Rocky Road Blues"、"Kentucky Waltz"、"True Life Blues"、"Blue Grass Special"など8曲を移籍したコロンビアに初録音。メンバーはテックス・ウィルス(g)、チャビー・ワイズ(f)、デイブ・「ストリングビーン」エイクマン(bj)、ビル・ウエストブルック(bs)、そしてアコーディオンのサリー・アン・フォレスター。ストリングビーンが脱退した後、ジム・アンドリューズがテナー・バンジョーで参加。
●1945年3月、レスター・フラット(g)、同年12月8日、アール・スクラッグス(bj)加入。
●1946年9月16日、"Heavy Traffic Ahead"を皮切りに、"Blue Moon of Kentucky"や"Toy Heart"など8曲を録音、翌17日には"Will You Be Loving Another Man"や"Wicked Path of Sin"など4曲、全12曲を録音、「ブルーグラス・サウンド」が誕生した。いわゆるオリジナル・ブルーグラス・バンドのメンバーは、ビルとレスター、アールにチャビー・ワイズ(f)とハワード・ワッツ(bs)。
●1947年10月27日と28日、上記と同じメンバーで16曲を録音。"I'm Going Back to Old Kentucky"や"I Hear Her Sweet Voice Callin'"、"Bluegrass Breakdown"、"When You're Lonely"や"Molly and Tenbrooks"など、1946年と47年のこれら全28曲が、ブルーグラス誕生を告げる、正真正銘の「クラシック・ブルーグラス」である。
●1948年初頭、アールが脱退したのを機に、レスターとハワードもバンドを離れ、フォギー・マウンテン・ボーイズ(フラット&スクラッグス)結成に向かう。ブルー・グラス・ボーイズのギタリストにはジョエル・プライス、ドイル・ライト、そして3月にはドン・レノ(bj)と、フォギー・マウンテン・ボーイズの結成に参加したジム・イーンズ(g)が参加。
●1949年10月22日、"Can't You Hear Me Callin'"や"Bluegrass Stomp"などの4曲を録音。メンバーはフォギー・マウンテン・ボーイズの最初の録音に参加し、この年の4月に移籍してきたマック・ワイズマン(g)、夏にドン・レノに代わって雇われたルディ・ライル(bj)、ジャック・トンプソン(bs)とチャビー・ワイズ(f)。そしてこの年の暮れまでに、あたらしいブルー・グラス・ボーイズのサウンドを創ることになる重要なふたり、ジミー・マーティンとバッサー・クレメンツがバンドに加入、あたらしいレーベル、デッカ・レコードに移籍する。 (了)

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February 03, 2009

トニー・トリシュカ IBMA基調演説

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【トニー・トリシュカ 2008年IBMA基調講演】(月刊ムーンシャイナー誌2008年1月号より)
みなさんがいうところの、「ブルーグラス法」の厳密な解釈に沿う人物では決してなかったわたしに、ブルーグラスについて話す機会を与えてくださったIBMAに感謝します。…そう、わたしはときにブルーグラスのメインストリームから離れたところで過ごしてきましたが、わたしが演奏してきたすべての奥底には、常にブルーグラスがありました。
 今回、IBMAがわたしに基調講演を望んだのにはいくつかの理由があると思います。その主たるものは今年1月、ラウンダ―・レコードからおおむねブルーグラスといえる、ダブル・バンジョー・アルバムをリリースして、遂に"Molly & Tenbrooks"をレパートリーにするバンドを自分のものとしたことによると思われます(笑い)。ですから今夜、そして今年、わたしは故郷へ帰ってきたのです。
 今夜、皆さんにブルーグラス入門についてのお話をしようと思いますが、わたしがこれから述べるのは主に、ブルーグラス全般について、とりわけバンジョーについてこれまでを振り返り、同時にこれからを見通すという考えに沿ったものになります。

 わたしは、引っ込み思案なティーンエイジャーの頃にブルーグラスを知るという恩恵に浴しました。ブルーグラスは、わたしに情熱を与え、「おぅ!神に感謝すべき」アール・スクラッグスのもとへと連れていってくれました。バンジョーがわたしに自分の殻を破って、ステージに立たせてくれたのです。
 14歳でわたしは故郷、ニューヨーク州シラキュースのフォーク・フェスティバルでバンジョー・コンテストに出場しました。優勝してしまったんです!幸運にもピーター・ローワン(当時21才)がバックを務めてくれて、きっとそのおかげだったと思うのですが(笑い)。たしかに、わたしは最初からミュージシャンとして、然るべき時に、然るべき場所にいるという幸運に恵まれていたのです。

■然るべきブルーグラスの場と、
         然るべきブルーグラスの時…

 1965年、16歳のわたしはシング・アウト誌に載ったバージニア州フィンキャッスルでの史上初めてのブルーグラス・フェスの広告を見て、友人とオンボロのステーション・ワゴンで南を目指し、明け方の3時にこの神聖な地に到着しました。
 その朝わたしが最初に目にしたのは、ビル・モンローがトレードマークのスーツとタイ、カウボーイ・ハットに身を包んで丘を下ってくるという、拭い去ることのできない姿でした。彼がスナック・バーに歩み寄って言うのを耳にした最初の言葉、「コカ・コーラをもらおう」、を忘れることはないでしょう。皆さんがご存じのとおり、ビルの言葉には常になにかしら永遠に刻み込まれるものがあるのです。
 わたしにとってこのフェスは、ここにおられる何人かの方々と同様、枢要なひとときでした。このフェスのプロモーターだったカールトン・ヘイニーは、土曜の午後に「ブルーグラス・ストーリー」というアイディアを企画しました。ビル・モンローがこれまでの多くのサイドメンたちと共演するという、素晴らしいコンセプトのものでした。かくして、ジミー・マーティンが歩み出て50年代初頭の劇的なハイ・ロンサム・ミュージックを再現し、ドン・レノとマック・ワイズマン、ベニー・マーティンが1949年の"Can't You Hear My Calling"を、そして、クライド・ムーディが"Six White Horses"を1940年に唄ったのと同じ見事さで唄ったのです。
 17歳のとき、ドン・レノとビル・ハレルがシラキュースのキャプテン・マックズ・クラム・シャックのステージで、一緒に演奏させてくれました。
 それから、1966年の秋、ブルー・グラス・ボーイズが近くの町、ニューヨーク州ロチェスターで演奏することを知りました。ショウの前日、われわれはビル(モンロー)をギター・プレイヤーの家でのディナーに招待したところ、ビルはそれを受けてくれました。ビルと息子のジェイムズ、リチャード・グリーン、ピーター・ローワン、ラマー・グリアが、ステージ衣装そのままにいたんです。ほどなくしてビルはわたしたちのバンドと一緒に何曲か演奏することに同意してくれました。
 ディナーでは、ビルは赤ワインを飲みながら古きよき時代の話、彼の飼っていた猟犬がどうやってシカゴの通りで3週間も前のウサギの匂いを追いかけることができたのか、といった話で楽しませてくれました。ディナーのあと、ビルとブルー・グラス・ボーイズはわたしたちのリクエストに応えて20分も演奏してくれたんです!ビルの神秘的な曲でわたしのお気に入りのひとつ、"Crossing the Cumberlands"をラマーが演奏してくれたのをいまでも憶えています。最後の仕上げに、あのブルーグラス・バスでショウに行こうと招待されました。わたしたちは辞退しました…、もちろん冗談ですよ!(笑い)
 60年代の終わり頃、髪の毛を短く切らないわたしは、ジミー・マーティンを聴きにシラキュース郊外のカントリー・バーへ行きました。店に入ると、地元の人たちからきつくにらまれたんですが、裏手に「ウィドウメイカー・バス」が停まっていて、ジミーはわたしと会うのを喜んでくれているようでした。実際のところ、彼はプリ・ウォーの、そう、プリ・ウォー!、ミッキー・マウス時計を腕からはずして、わたしに売りつけようとしたんです。わたしは断ったんですが、それ以来ずっとそのことを後悔しているんです(爆笑)。
 然るべきブルーグラスの場に、然るべきブルーグラスの時にいたことが、わたしを後押しし、インスピレーションを与えてくれたのです。同時に1962年、グリニッチ・ビレッジの祖母のアパートでボブ・ディランの最初のレコードを聴いたことも、あるいは、17歳のときにビートルズの"Strawberry Fields Forever"を初めて聴いたことも、わたしにインスピレーションを与えてくれました。どんな理由にせよそのときには、彼らがポピュラー・ミュージックの枠を広げようとしていることを受け入れる心の準備があったのです。ディラン、ビートルズ、アーロン・コープランド、ジョン・コルトレーンなどなど。彼らはみな、然るべきときにわたしの音楽に浸透してきたのです。そして、広い意味でわたしはひとりではなかったのです。
 ブルーグラスの特質は常に、過去の関連のある音楽形態からいかに心地よく引用されているかにある、ということは事実ではあるけれど、ブルーグラスはそれ自体、およそ関連性のないフォーマットとブレンドされることでフレッシュなサウンドを創り出している、ということも同様の事実です。こうしたアプローチの両方が、ブルーグラスを活気があり拡大しつづける音楽にしてきたのです。そして、こうしたことを考えると、これこそがここにいるわたしたちがやっていること…、前に進むために過去を広く振り返るということに気がつくのです。

■ビルがなんと、トロンボーンと
     マンドリンのための曲を作りたいと…

 ビル・モンローが彼の音楽を始めたとき、彼はスコッツ・アイリッシュのフィドル・トラディションを何百年もさかのぼりました。彼が主に影響を受けたのはもちろん、叔父(アンクル)のペン・バンディバーからでした。彼はそれを、ケンタッキー州ロジーンで暮らしていたアフリカ系アメリカ人のギタリスト、アーノルド・シュルツの演奏から学んだブルーズ・トラディションとつなげていったのです。彼はまた、ジミー・ロジャーズなどのアーリー・カントリー・ミュージックの影響や、19世紀のハート・ソング(ロマンティックなバラッド)、兄のチャーリーと一緒に発展させてきた音楽(モンロー・ブラザーズ)などを融合して、新しい音楽のフォームを創造したのです。
 過去からの強固な基盤のうえに築き上げる一方で、同時代のサウンドにも影響を受け、アーティスティックな意味でも商業的な意味でも、彼の音楽により強いエネルギーを吹き込んでくれるものをほかのソースに求めることを恐れなかったのです。レスター・フラット、アール・スクラッグス、チャビー・ワイズ、ハワード・ワッツからなるモンローのバンド(所謂オリジナル・ブルーグラス・バンド)が、それ以降のすべてのブルーグラス・ミュージックの最初の鋳型となってきたけれど、ほかのエレメントが絶えることなく探求されてきているのです。
 例えば、アール・スクラッグスが初めてモンローとレコーディング・スタジオに入ったのは1946年9月16日、一番最初に演奏したのは"Heavy Traffic Ahead"でした。彼の最初のソロは、ブルージーな、そしてかなり難しい、のちに"Foggy Mountain Special"とタイトルをつける曲でした。そのインスピレーション…?、それは"Step It Up and Go"というブギ・ウギ・ナンバーです。
 またこれも興味深いでしょう。"Blue Moon of Kentucky"をビルは最初、1946年9月に哀愁を帯びたワルツでレコーディングしました。その後、1954年7月にエルビス・プレスリーがロカビリー・バージョンをリリースしたのに応えて2ヶ月後、ビルはワルツで始まってミディアムの4分の2拍子にテンポ・アップするという、われわれが現在よく知るバージョンで録音しなおしたのです。また50年代、彼はエレクトリック・ギター、ホンキー・トンク・ピアノ、オルガンを使った曲をレコーディングしています。ビルはなんと、トロンボーンとマンドリンのための曲を作りたいという欲求から、"Trombolin"という曲を作ったりもしました。(中略)
 近年、ブルーグラスには多くの音楽的な広がりがありますが、この伝統は遠い昔に始まったものです。ソニーとボビー(オズボーン・ブラザーズ)が"Up This Hill and Down"を、ドン・レノが"The World is Waiting for the Sunrise"を、カントリー・ジェントルメンが"Theme from Exodus"(映画『脱出』テーマ)を、フラット&スクラッグスがあまりにうまくいきそうではないボブ・ディランの"Rainy Day Women #12 and 35"を、初期ニュー・グラス・リバイバルは"Great Balls of Fire"を、ジョン・ハートフォードは『Morning Bugle』で4分の5拍子を、そしてドイル・ローソンはソウル・スターラーズの"Jesus I'll Never Forget"を取り上げています。これらはみな、過去を振り返り、横道に逸れながら、たゆみなく前進しようとしてきたことを物語っています。

■バンジョーの歴史の中で
        わたしが見失っていた鎖の環…

 1990年、テネシー・バンジョー・インスティテュートへの参加は、わたしに天啓をもたらしてくれました。そこで20世紀への変わり目のパーラー・バンジョー・スタイルを知り、南北戦争の時代のミンストレル・バンジョーの存在を知りました。が、それがどのようなサウンドなのかを知る人物については、そのとき手がかりが得られませんでした。
 ですが今日、フレットレスのガット弦で、ロー・チューン、皮のヘッドのオープン・バック・バンジョーを弾く人が3、4人いて、1855年からのバンジョー教則本からホンモノを演奏するまでになったのです。タイムマシンに乗って時間移動した気分です。心のうちで、わたしは西アフリカ海岸のゴード(瓜)のバンザ、原始のバンジョーを聴くことができたのです。それは物凄く感動的な体験で、バンジョー歴史物語の中でわたしが見失っていた鎖の環を完成させるものでした。
 もうひとつのバンジョーの過去の断片も、わたしの好奇心をそそるものでした。19世紀から20世紀の変わり目に女性たちにとりあげられたパーラー・スタイルは高度に進化した奏法で、あなたの感性を研ぎ澄ませてくれます。優雅な女性たちは楽器を演奏すること――通常はピアノやウクレレ――を学びました。が、煙草を吸い、自転車に乗り、タトゥーを誇示する、そんな活動的な(上流)女性たちはバンジョーのほうを選んだのです(笑い)。
 多くのアフリカ系アメリカ人はこの楽器と、苦痛に満ちた過去を思い出させるものを避けてきたのですが、ガス・キャノンなど何人かはそれを受け入れ、その魅力に惹かれていきました。ハーモニカ・ラックをみせびらかし、ジャグを抱えた彼はテネシー州メンフィスでキャノンズ・ジャグ・ストンパーズを結成し、20年代後半、矢継ぎ早にレコーディングを行いました。彼のレパートリーには、スライド・バンジョーのレコーディングの最初の例が含まれています。彼は"Madison Street Rag"も演奏しており、そこに含まれるリックは、30年後に録音されたアール・スクラッグスの"Ground Speed"のBパートに聴かれるシンコペーションと右手のアプローチと全く同じものなんです。
 すべてのものが連続性を持っています。(中略)
 もう一度いいますが、前に進むために過去を振り返ってみるのです。
 こうしたコネクションやそのほか多くのことが、音楽への情熱にインスピレーションを与え、より深いものへとしていくのです。もちろん、同様の探求がドブロにもあてはまって、チェコスロバキアの昔にまでさかのぼれるし、マンドリンのルーツをイタリアに、ということもです。あるいは、ブルーズの辿った道をビル・モンローからスキップ・ジェイムズやロバート・ジョンソンまでたどることもそうです。そして、こうした歴史的なマーカーとしての音楽が皆さんの音楽の糧として、ブルーグラスにもアダプトされるんです。

■学位取得に、ふさわしい音楽/楽器…
 しかし、ブルーグラスはどこへ向かっているのでしょう? われわれの音楽を啓蒙し、プロモートし、拡大していくことは、われわれの責務であり、もちろん、その将来のために不可欠のものです。ブルーグラス・ミュージック・キャンプの成功と増加は明白な兆候であり、そこではあらゆるレベルのプレイヤーたちがはかり知ることのできない経験を積んでいます。積極的に参加してほしいものです。
 学問ということでは、大学レベルのブルーグラス・プログラムがゆっくりではあるけれで、明らかに広がりをもってきています。長きにわたって続いているテキサス州レヴランドのサウス・プレインズ・カレッジと東テネシー州立大学に加えて、ボストンのバークリー音楽院が遂に標準的なジャズ楽器以外の楽器での学位取得に道を開いたのです(拍手)。
 何年も前、バークリーでバンジョーでの学位取得を目指したけれど、もっと「ふさわしい楽器」を学ばなければならないと言われたふたりのプレイヤーがいたことを、わたしは知っています。幸いにもいま、変化の風が渦巻いています。事実、インファマス・ストリングダスターズのクリス・パンドルフィが、バークリーを卒業した最初のバンジョー・プレイヤーという栄誉に浴したのです(拍手)。
 また、つい先週のことですが、ケンタッキー州ハイデンのハザード・コミュニティ&テクニカル・カレッジでの新しいブルーグラス・プログラムについて、ディーン・オズボーンと話をしました。そのなかでもっともエキサイティングだったのは、講師のひとりとしてボビー・オズボーンが加わっているということです(大拍手)。またディーンは、人々がこのプログラムに参加しようとする理由が実にさまざまである、とも話していました。ある若者は詩の批評会に関わっていて、ブルーグラスをその韻文の情景に使い、ある女性は山岳地方のエスニックな文化を理解する入り口としてブルーグラスを活用しようとしているのです。ソングライティングの上達やレコーディングの経験を求める人たちもいます。
 毎年、絶えることなく新しい教則の本やDVD、CDが登場しています。1963年にわたしが弾き始めたときには、たった1冊、ピート・シーガーのバンジョー教則本だけしか知りませんでした。いまや、トップ・プレイヤーたちがそのテクニックをクロース・アップで個人的に教えてくれる教材が、雪崩のごとく存在しています。

■バンジョー音楽が日常的に
     エレベーターのなかで聴かれる時代…

 一般のマーケット全体ではCDセールスが苦戦していますが、ブルーグラスのコミュニティでは、久しく廃盤となっていた貴重な音源を収めたボックス・セットや珍しいライヴ・レコーディングなどが、魅惑してやまない学術的なディスコグラフィの恩恵とともに止まることなく発表されています。70年代に、わたしはアメリカでは手に入れることのできなかったレッド・アレンとオズボーン・ブラザーズの復刻盤を求めて、東京のレコード店を探し回ったことを憶えています。今それらは、簡単に手に入れることができるんです。実際、われわれブルーグラスのファンは、アルバムのすべてを聴き、ライナー・ノーツをありがたく思うんです。
 ハンナ・モンタナ(ディズニーTVドラマのアイドル歌手)の最新作を追いかけているような人たちはたぶん、誰がドラムのプログラミングをやっているのかなんて気にもしないと思いますが、わたしは、ベニー・ウィリアムズが"Salt Creek"のクールなギター・ランを弾いているんだということを知りたいのです。LPレコードに収められた音楽と書き記された内容のポテンシャルの復刻は、再生音の忠実度とともに考慮に値するものなのです。(中略)
 もちろん、インターネットは限りなく有益なツールです。(中略)しかし、誰もがコンピューターのスクリーンにへばりついて、ますます読むということをしなくなった現在も、ブルーグラス・アンリミテッドやブルーグラス・ナウ、バンジョー・ニューズレターといった雑誌は、それぞれ自分たちの座を以前にも増して保っています。(中略)
 あまり意味のないことですが、注目すべきことにタイム誌の9月10日号には記者が、大統領選挙に名乗りをあげているジョン・エドワーズがほかの民主党の対抗馬たちより優位に立っているのは、「彼のスウィートな声が、その厳しい話の内容を易しいものにしている。大声をはりあげることなく、ブルーグラス・バンジョーのように張り詰めた、しっかりとコントロールされたロールで話している」からであるとリポートしているのです。そんなことは投票する理由にはならないでしょうが(笑い)。
 バンジョー音楽が日常的にエレベーターのなかで聴かれる、そんな時代がくるのはずっと先のことになるのでは、とも心配していますが、でも、望みはあります。スティーブ・マーティンとわたしが出演したエレン・デジェネア・ショウ(米人気TVトークショウ)で、観客たちは音楽に合わせて手拍子しないように要請されたのですが、観客がプロデューサーの要求を無視してすぐにわたしたちとひとつになったのです。"Dueling Banjos"(映画『脱出』テーマ)や『じゃじゃ馬億万長者』ぐらいしかこの音楽のことを知らないテレビの観客たちが、誰に促されることもなく自然発生的に熱狂し、ツイン・バンジョーにわれを忘れてしまうということが、ブルーグラスの伝染性の特質を物語っているのです。
 今日、ブルーグラスの天幕は、殆どが厳密な意味でのブルーグラスではない音楽で、どんどん大きくなっていっているんです。多様性ばんざい!です。アンクル・アールのようなエンターテイニングな才能あるグループが、ロンダ・ビンセントやデル・マッカーリーと同じ場所で、オールドタイムの色合いをもった音楽を演奏しているんです。また若いアフリカ系アメリカ人のシンガー/インストゥルメンタリスト/エンターテイナーたちのトリオ、チョコレート・ドロップスが、黒人のストリングバンド・トラディションから登場してきました。
 わたしの息子が起こりそうな黙示ではないかと考えている中、尊敬すべきロック界の神であるレッド・ツェッペリンのベーシストのジョン・ポール・ジョーンズ、最近ブルーグラス・フェスやマンドリン・キャンプに参加し、遠い昔にはバンドのギタリストであるジミー・ペイジにバンジョーを渡してしまった、そんな彼がいまではそれを返して欲しがっているのです。ツェッペリンとブルーグラス界のさらなる合流ということでは、ツェッペリンのボーカリストであるロバート・プラントとアリソン・クラウスがデュエット作をリリースすることになっています。それと昨年の作品、スコット・ベスタルやロブ・アイクスらがバックを務め、数曲でヴァン・ヘイレンのデビッド・リー・ロスをフィーチュアした『Strummin' with the Devil, the Bluegrass Tribute to Van Halen』も忘れてはなりません。
 こうした、不釣合いとも思える並びが与える衝撃だけが、ブルーグラスをより広範囲の聴衆のもとに届けることができるのです。

■ローカル・ルールに則るバンジョーの
           限界を超える若者たち…

 バンジョー・プレイヤーとしてのわたしの最大の喜びのひとつは、多くの偉大なミュージシャンたちの仲間に入ることであり、彼らの多くはよき友人となっています。ダブル・バンジョー・ブルーグラス・スペクタキュラー・バンドで、わたしはブリタニー・ハースをフィドルに採用しました。ブリタニーはオールドタイムやブルーグラス、さらにはそれ以上の分野に熟達しており、稀有なボウイングのテクニックの持ち主です。彼女はプリンストン大学で生物学を専攻しており、学問とフィドルのどちらかを選ぼうとしているところです。彼女は現在20歳で、彼女の都合がつかないときには18歳になったばかりのマイク・バーネットを呼びます。彼はまだ高校に通いながらジェシー・マクレイノルズのバンドでも活躍する爆発力のあるフィドラーなんです。
 ノーム・ピケルニーやグレッグ・リストとのダブル・バンジョーもやりました。わたしたちはしばしば、ローカル・ルール(条例)に則るバンジョーの限界を超えてしまいます。彼らはその方向に進んで、自分たちの楽器の語彙を拡張するとともに、ブルーグラスの聴衆を拡大させるという素晴らしい、奇跡的な効果をもたらしているのです。ノームは現在、クリス・シーリと演奏、レコーディングしており、グレッグはブルース・スプリングスティーンのシーガー・セッション・バンドで、最近、CDアルバムとDVD『Live in Dublin』をリリースしています。
 もちろんほかにもたくさん、こうした多くの高度に才能ある若いブルーグラス・ミュージシャンたちは、おそらくわれわれの音楽、その伝統、その将来への最大の捧げ物でしょう。

■ゴス・パンクとスナッフィ・ジェンキンス…
 こうした過去、現在そして未来が交わり、互いに生み出しているところを体現するある出来事の話で終わりにしたいと思います。
 かつて80年代にわたしは、暴力的(violent)でもなく、女性的(femme)でもない、バイオレント・ファムズというパンク・フォーク・バンドのブライアン・リッチーと知り合いました。お互いのアルバムで、彼らが作った殺人と破壊の物語、"The Country Death Song"というネオ・オールドタイム・チューンを一緒にレコーディングしました。
 あるとき彼らが、わたしと友人のバリー・ミッターホフに、ニューヨークシティのアービング・プラザでの演奏に参加して欲しいと頼んできたのです。彼らの観客は主にピアスやモホーク刈りにタトゥーというゴス・パンクたちでした。サウンド・チェックが7時、ファースト・セットは深夜1時ということでした。何時間もあったので、バリーとわたしは劇場を出て新聞で時間つぶしの映画がないか探しました。シルベスター・スタローンの映画を見るかどうか迷っていたとき、別のページでスナッフィ・ジェンキンズ(スクラッグス以前のスリーフィンガー奏者)とパピー・シェリルの写真をみつけたんです。歩道に突っ立って口あんぐりとなったわたしは、彼らがまさにその夜、ロウワー・マンハッタンで演奏していることを発見したんです。
 6台のタクシーを呼び止めたあと、ようやく場所を知っているタクシーをつかまえ、会場に飛び込みました。スナッフィがピックガードのついたプリ・ウォーのフラットヘッド・バンジョーでとてつもなくホットな演奏を聴かせてくれる、素晴らしいショウでした。彼はひさしの垂れた帽子をかぶり、ウォッシュボードも演奏しました。パピーも素晴らしい演奏でした。でも、バイオレント・ファムズとその闘争心を吹き込まれたゴス・パンクの観客たちの世界に戻らないといけない時間になっていました。
 ショウは早朝3時までつづき、そう、われわれの演奏にアクセントをつけるように、彼らはもみ合いながら踊っているピットへ、ステージからのダイヴをパーフェクトに演じてみせていました。その夜が更けるにつれ、わたしはさっき聴いたばかりのスナッフィ・リックのいくつかをダイヴさせていきました。まさに、ふたつの世界の激突です(笑い)。

 この出来事はわれわれの音楽の連続性という視点、そのもののなのです。歴史的なルーツから現在、そして将来へとつづく、わたしにとってのブルーグラスの本質、そしてそこでのわたしの役割を明らかにすることを手助けしてくれるものなのです。
 ですから、わたしがブルーグラスを想うとき、「わたしは決してそれを捨てないし、そして今夜も、家に帰ったように感じる」と言えることが、とても心地良いのです。皆さん、ありがとうございました。
(おわり)


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 ペリーの黒船とともに日本に初めて渡来したアメリカ音楽、1854年の日米和親条約締結祝賀宴で演じられたそのコンサートの主役だった楽器、バンジョー。その後、150年余を経て現代バンジョー界の革命児、トニー・トリシュカが2009年3月に来日する。
 昨年のグラミー賞最優秀ブルーグラス・アルバムにノミネートされた2007年作『Double Banjo Bluegrass Spectacular』は、IBMA(国際ブルーグラス音楽協会)最優秀インスト・アルバムを受賞、2008年の最新アルバム『Territory』は今年の全米インディペンデント・ミュージック・アワードのアメリカーナ部門で最優秀アルバムを受賞したトリシュカ。
 ブルーグラスはもちろん、バンジョーの起源である西アフリカの音楽からアメリカにおけるさまざまな発展、そしてアバンギャルドなバンジョー・ワールドまで、過去・現在・未来のバンジョーのさまざまな表情を楽しませてくれる。その全貌を、日本のバンジョー界の第一人者、有田純弘のサポートと通訳で……!! (渡辺三郎)

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【トニー・トリシュカ・バイオ】
(月刊ムーンシャイナー誌より)
 1971年、カントリー・クッキングの一員としてレコード・デビュー以来、トニー・トリシュカのアバンギャルドな感性は、バンジョー奏者のみならず、ブルーグラス音楽/アメリカーナ・ルーツ音楽界全体に大きな影響を与えつづけている。

 1949年1月16日、ニューヨーク州シラキュースに生まれ、1963年にキングストン・トリオの"Charlie and the MTA"を聴いてバンジョーに興味を持った。前述のカントリー・クッキング以来、実験的なアルバム『Bluegrass Light』、『Heartland』を立て続けに発表、76年の名盤『Banjoland』で現在の地位を確立した。翌年にはトニー受賞のブロードウェイ劇『The Robber Bridegroom(泥棒花婿)』の音楽監督を務めたのち、78年にはピーター・ローワンやリチャード・グリーンとともにレッド・ホット・ピッカーズで来日、80年からはトニー・トリシュカ&スカイラインで2度来日している。
 1989年にはアカデミー受賞映画『ドライビング Miss ミス・デイジー』の音楽を担当、その間にもビル・キースとベラ・フレックとのトリオで『Fiddle Tunes for Banjo』('81)、ソロ『Robot Plane Flies over Arkansas』('83)、『Robot Plane Flies over Arkansas 』('85)を発表している。
 スカイライン解散後の90年代には、ベラ・フレックとふたりで『Solo Banjo Works』('92)、トム・アダムズとトニー・ファータドとのトリオ『Rounder Banjo Extravaganza "Live"』('92)、バンジョーのあたらしい視点を具体化した名盤『World Turning』('93)、イタリアのフラットピッカー、ベッピ・ガンベッタとの『Alone & Together』('94)、クリスマス集『Glory Shone Around: A Christmas Collection』('95)、ハーリー・アレンらとのトラッドグラス・バンドのビッグ・ドッグスでの『Live at Birchmere』('95)と同時進行するダロル・アンガー/マイク・マーシャル/デビッド・グリア/トッド・フィリップスとのスーパーインスト・ユニット、サイコグラスでの『Like Minds』('96)や『Now Hear This』('05)、そしてジャズ・コンボ、トニー・トリシュカ・バンドとして『Bend』('99)、『New Deal』('03)を発表、トラディショナル・ブルーグラスからジャズまで、バンジョーの創造性に革命的な足跡を残している。
 そして2007年のアルバム『Double Banjo Bluegrass Spectacular』には、スリーフィンガー・バンジョーの創始者アール・スクラッグスからバンジョーをジャズ/ポップ/クラシックにまで昇華したベラ・フレック、映画俳優スティーブ・マーティンらを迎え、米国メディアに数多く露出しブルーグラスとバンジョーの地位向上に貢献、2008年のIBMAアワードでは最優秀バンジョー奏者や最優秀インスト・アルバムほか三賞を獲得、また同年のグラミー賞ブルーグラス部門で最終ノミネートされている。また、2008年のスミソニアン・フォークウェイズからの最新作『Territory』では、ピート・シーガーやビル・キースほか、近代バンジョーの革命児や、マイク・シーガーやブルース・モルスキー、ビル・エバンスといった歴史的なバンジョー奏法の伝承/研究者らとともに、バンジョーの地勢的創造に取り組み、2009年の全米インディペンデント音楽協会の最優秀アメリカーナ作品に選ばれている。

 アメリカ唯一の民族楽器といわれるバンジョーを、ブルーグラスやオールドタイムという枠だけにとどめず、広い世界に飛び出したトップランナーであるとニー・トリシュカ。トリシュカがベラ・フレックの導師であっただけでなく、過去を振り返りながら前に進むブルーグラス/アコースティック・ミュージシャンすべてのメンターでありつづけていることは、これらの作品を聴けばすぐにわかるだろう…。

関連サイト
◆トニー・トリシュカ www.tonytrischka.com/
◆有田純弘 www.hiroarita.com/
◆月刊ムーンシャイナー www.bomserv.com/MoonShiner/index.html


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May 15, 2008

シエラ・ハル「ビッグなスモールタウン・ガール」…ムーンシャイナー誌6月号より

現在、米国ブルーグラス界でもっとも大きな話題の16歳の天才少女、シェラ・ハル(写真)が全米デビュー作『Secrets』を発表した。21世紀の若いテクニックとトラッドグラスへのリスペクトを感じさせ、なお、みずみずしさに溢れた強烈な一撃である。
 しかもこの夏、シェラは埼玉県川口市の国際交流プログラムに来日、その後、7月29日から自身のバンド、若手トップ・ミュージシャンによる標準ブルーグラス編成5人組のハイウェイ111を米国から呼び寄せて日本全国をツアーするという。きっと新旧のブルーグラス・ファンを納得させる、米国ブルーグラス最前線のソリッド・ブルーグラスが堪能できるだろう。
 まずはこの少女、どんな女の子なのか…、さまざまな資料から紹介してみよう。(文責/渡辺三郎)

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 1987年、16歳のアリソン・クラウスがラウンダー・レコードからデビューした。そのとき、誰も16歳の少女がのちにグラミー賞女性最多受賞の記録を塗り替えるアーティストになるとは、正直、考えてもいなかった。そして今年5月、同じ16歳のシェラ・ハルが同じラウンダーから全米デビューをした。
 16歳、女の子がもっとも輝く年ごろである。そんなフツーの女子高生という一面を持つ天才少女はアリソンの庇護の下、そのたぐいまれな音楽的な才能とともに、輝かしい将来が期待されている。…が、そんな彼女の生まれ育ったのはダニエル・ブーン国立森林にほど近いアパラチアの西端、われわれが一般にアメリカに対して抱くイメージとはかけ離れた地域だ。

 シェラのホームタウン、テネシー州バーズタウンはノックスビルとナッシュビルの中間、ケンタッキーとの州境にほど近い人口903人の高地にある田舎町だ。平均所帯収入は2万ドル以下、200万円にもならないという地域。まさに、かつては秘境とされたようなアパラチアの一角である。
 そんな、とても貧しいエリアでは、「人々は音楽を楽しむこと、ほとんど毎週のようにどこかでピッキン・パーティーが開かれ、魂を込めて心から歌うことを自然に覚えていくのだ」と、ハル一家の友人である隣町、フェントレス郡の市長が語っている。
 父は家具工場で働き、母は看護婦。2歳上のコディーはすばらしいギタリストだし、母のブレンダもリズムギターを弾くという。コディーは川口総合文化センターでのコンサートには参加するし、ブレンダは保護者として来日の全日程に付き添う。ちなみに、日本人にとって「ハル」と言えば、太平洋戦争開戦のきっかけとなった「ハル・ノート」、米国国務長官のコーデル・ハル(1871-1955)なのだが、そのハル長官はテネシー州バーズタウン出身なのだ。日米開戦というデリケートなトピックなので、シェラとの関係はまだ聞いていない……。(閑話休題)

 すでに2度のカーネギーホール出演をはじめ、グランド・オール・オープリやマールフェス、T.ボーン・バーネットの『グレート・ハイ・マウンテン・ツアー』に抜擢されるなど、さまざまなメジャーステージを経験し、アリソン・クラウスやサム・ブッシュほか、ブルーグラスの大御所たちとの共演も数知れないシェラ、10年後には間違いなくアメリカのブルーグラス界を支えるトップ・アーティストになっているだろう彼女、現在、米国ブルーグラス界でもっとも期待される話題のシェラ・ハル、どんな少女なのだろうか……。

■フツーの女子高生 
 「わたしは今、公立高校2年生なの。学校と音楽、なにもかもがあっという間に一緒くたになっちゃって、もう大変なの。高校卒業までにあと1年、でも、やるしかないわ」。
 アメリカの多くの天才と呼ばれるミュージシャンたちは、子供のときからホームスクールという家庭学習プログラムで勉強をするのが当節の流行のようだが、シェラは小さな町の公立高校を選んでいる。そこでフツーの高校生活を過ごしていることが、あのおしゃまで快活な性格を醸成したのかもしれない。シェラの人をそらさない、大人もたじたじの会話術は天性の頭の回転の速さと同時に、「スモールタウン・ガール」の面目躍如といったところか?
 「高校をやめる気はないわ。でも、GED(学力検定)テストも興味なしよ。やりはじめたことは最後までやり通すつもりなの。学校が大好きだし、高校を卒業するということがわたしにとってとても大切なことなの。でも、学校を休むことも多くなって、追いつくのに大変。早くやり遂げて、音楽だけに集中したいと思うこともあるけれど……」。

■ブルーグラス
 「父さんはずっとブルーグラスも好きだったけれど、いつもはロックを聴いていたの。それがある日、ラリー・スパークスのテープを買いはじめたのよ、ママはとてもショックみたいだったけれどね。ラリー・スパークスってハードコアなトラッドグラスでしょう、父にとってはきっと大きなジャンプだったでしょうね。わたしは兄のコディーと教会で歌ったりはしていたんだけど、わたしが8才のとき、父が自分でマンドリンを買ってきてレッスンを受けはじめたの。それを見て、わたしもブルーグラスに興味を持つようになったの」。
 多くの子供たちが、生まれたときから親たちのバンド活動を通じて自然にブルーグラスに親しんでいくのだが、シェラの場合は違ったようだ。マンドリンを弾きはじめたお父さんが、あっという間にシェラに追い越されていく様子を想像すると、微笑ましくもある。

■ハリウッド女優デビュー
 「この5月に初めて映画を撮るの。ビリー・グレアム(南部バプテスト教会の福音主義伝道師。アメリカの伝道師と呼ばれ、大統領就任式の際の祈祷をたびたび担当する。1918-)の伝記で、ビリーの少年時代の妹役を演じるの。とてもワクワクするわ。この前、ロニー・ボウマンやジョン・コーワン、ロニー・マッカーリーらとジョン・カーター・キャッシュのスタジオでサウンドトラックも録音したところなの。"Just As I Am"という曲で、ビリーのテーマソングのように使われるらしいのよ」。ハリウッド映画『Billy; The Arly Years』は今秋全米公開予定だ。
 すでにカーネギーホールに2度、アリソン・クラウスやサム・ブッシュらの引き立てでグランド・オール・オープリをはじめさまざまな大舞台を経験してきたシェラ、女優としてのキャリアが加わるとは、まさにシンデレラ・ガールといえるだろう。

■マンドリンを弾くシンガー
 「ひとつの音楽だけに心を閉ざすのは良くないと思うわ。ブルーグラスにはそういう人も多いけれど、わたしはジャーニーとかエア・サプライ、デフ・レパードとか、父の好きなZZトップなど、何でも聴くわ。それと同じブレス(呼吸)でラリー・スパークスとかドイル・ローソンを聴くのよ」。
 「教会の行き帰りには車の中で兄と一緒にドイルを聴きながら、あんな風に歌いたいって、よく大声で一緒にハーモニーしていたの。でも、真剣に歌を歌おうとしたことはなかったけれどようやく最近、わたし自身の声を見つけたような気がするの。マンドリンを弾きはじめて8年、ずっとマンドリン弾きだと思っていたのだけれど、ここ2年ほど、歌うことの意味が分かってきて、わたしの音楽で伝えたいことの大きなパートになってきたの。わたしのことを『マンドリンを弾くシンガー』だと思ってもらいたいわ、『歌も歌えるマンドリン弾き』じゃなくってね(笑い)」。

■マンドリン
 「父さんははじめ、わたしにフィドルを勧めたの。そのためにチューニングが同じマンドリンを教えてくれたんだけど、フィドルが大人サイズのもので弾けなくて自然にマンドリンを弾くようになったの。でも、今でも少しはフィドルを弾くんですよ。ギターは大好きで、いつも弾いています。
 マンドリンに関してはアダム・ステッフィとクリス・シーリね。クリスって、『ワァーオ、そんなことマンドリンで出来るんだ』って人々をビックリさせるものね。ほかに、アンディ・レフトウィッチや、サム・ブッシュ、ウェイン・ベンソン、アラン・バイビー、そしてもちろんドイル・ローソンも大好きよ。でもやっぱり、影響というと間違いなくアダムとクリスかな」。
 シェラのマンドリンはもちろん、ギターがすごい。あの華奢な体で軽々とドレッドノートのギターをデリケートにフラットピッキンされた日にゃ、もう敵いません…。最新作『Secrets』の中でも、シェラのオリジナル・インスト"Hullarious"で信じ難いフラットピッキン・ギター・テクニックを聴かせているし、昨年のIBMAショウケースではギターを抱えて実に美しいバラッドも聴かせてくれた。

■クリス・シーリとの出会い
 「10才のとき、はじめてあんな大きなフェス、マールフェスに行ったの。両親がわたしの大好きなアリソン・クラウスが出るからって、はじめての小旅行のようだったの。そこでクリス・シーリをはじめて見て、ステージから降りてくる彼にストラップにサインをせがんだの。サインをもらった後、そこにいた女の子が、何か弾いてって言うから彼女に1曲弾いてあげたの。するとクリスがこっちを向いて、わたしの背丈に合わせて膝を折って、『なんてこったすげぇ、一緒に弾くかい?』って。
 彼はほんとに素敵な人で、そのあと2時間、ずっとジャムしたの。それが最初の出会いだったの。クリスのような人が、ちっさな子供のために自分の時間を割いて、あんなに長い時間一緒に弾いてくれたなんて、ものすごくクールなことよ。そして、もっとクールなのはジャムの後、バックステージに連れて行ってくれてアリソンにあわせてくれたの。夢がかなったの!! わたしの一番大きな思い出よ」。
 そう、アメリカではこうして次々と優秀なミュージシャンが発掘されていく。きっとその日のうちに、「シェラ・ハル」という名前はマールフェスのバックステージの話題となり、それが日を追ってブルーグラスの重要な人たちの耳に入っていき、ブルーグラス界全体の話題となっていく。

■アリソン・クラウス
 「もう、言葉も出なくて、ほとんど泣きそーだったのよ。あらゆる意味で、彼女はわたしのメイン・ヒーローなの。彼女に勝る人はいないわ」。12歳当時のシェラが、初めてアリソンと会った10歳のときの様子を、ボストン・グローブ紙に語っている。ブルーグラスを好きになった少女にとって、アリソン・クラウスは雲の上の女性。誰がなんと言おうと、彼女の存在は大きい。そんなアリソンがシェラを保護し導きつづけているのだという。
 アリソンは、「親子のような関係だっていう人もいるけれど、とんでもない。彼女にはすばらしいブレンダっていう母親がいるし、わたしたちは親友のようなもの。彼女の才能だけがすごいんじゃなくて、人としての積極性や勇気に感心するの…」という。ふたりは、映画『オー・ブラザー』から生まれた『グレート・ハイ・マウンテン・ツアー』のツアーバスの中でよくウィットの効いた替え歌を作ったり、姉妹のように仲が良かったといわれている。
 当時12歳だったシェラに、「とても美しいと思ったわ。何千人もの観衆に対してまったく物怖じせず、堂々と自信を見せ、ジョークで笑わせるなんてとても美しいことなの」とアリソンは語っている。
 「アリソンがステージにいるときは大スターなんだけど、彼女の心の中はいつも普通のアリソンなの」、とシェラはアリソンがユニオン・ステーションのメンバーをサイドメンとしてではなく、対等に処遇する様子を見て感心したとも述べている。つまり、アリソン・クラウスとユニオン・ステーションはバンドで仕事をするとき、メンバー全員が、アリソンを含めてギャラを均等割りにする。
 シェラはそのとき、間違いなく、ブルーグラスの本来あるべき姿を学んだだろう。将来、きっと大スターになったとしても、シェラはアリソンを見て学んだブルーグラスの本当の意味を忘れないだろう。ブルーグラスはメンバー全員が気持ちを合わせて創るアンサンブル音楽なのだということを。

■ブルーグラスを愛する人々
 「これまでに出会ったブルーグラスとそれを愛する人々は、音楽を学び演奏するというすばらしい環境を創ってくれています。この夏、日本に行けることになったのも、そうしたすばらしいブルーグラスの人々の力添えによるもので、とても楽しみにしています。わたしもこのすばらしい音楽の一部であることに幸せを感じます」。
 シェラの最新アルバム『Secrets』には、その瑞々しい16歳の感性と、還暦を迎えたブルーグラス・スタイルへの憧憬と愛情が見事に織り込まれたさわやかなアルバムとなっている。

 シェラがはじめてサム・ブッシュにあったとき、わたしは偶然、ルイビルのガルトハウス・ホテルの同室にいた。そのとき、たしかに震えるほど緊張していたと言うが、サムを相手に一歩も引かないジョークの応酬に驚いた。10歳そこそこの小さな女の子が、われらがサムを相手に彼を、そして周りを爆笑させ、ジャムでも堂々と渡り合っていた。その強心臓は、写真で見る可愛い女の子というイメージとは程遠い、芯の強さを感じたものだ。
 その後、IBMA教育プログラムの学校向けブルーグラス紹介DVD作品『Discover Bluegrass; Exploring American Roots Music』でライアン・ホラデイとともにホストを務めたり、前述のように、あらゆる大きなチャンスを与えられてきたシェラ・ハル。まちがいなく、21世紀のブルーグラスを背負っていく宿命が与えられたシンデレラガールである。
 ストレート・ブルーグラスの基本をしっかりと守りながら、圧倒的なテクニックと、女性らしいしなやかな作品に仕上げられた全米デビュー作『Secrets』は、ユニオン・ステーションのほか、トニー・ライスやステュアート・ダンカンらが参加したすばらしいブルーグラス・アルバムになっている。つぎに、アルバムの公式プレス・リリースを紹介しよう。
 以下、割愛。

「月刊ブルーグラス・ジャーナル、ムーンシャイナー」は今年、創刊25年目を迎えています。
なお7月号には、ハイウェイ111のメンバーや、川口市へやってくるメンバーらの紹介があります。
定期購読は1年間(12冊)\6,000- 半年間(6冊)\3,300-。単冊\525-。
ご注文は、info@bomserv.com
http://www.bomserv.com/MoonShiner

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 シェラ・ハルの全米デビュー作『Secrets』に寄せられたメッセージです。

 シェラは、まぎれもない特別な才能に恵まれた素敵な女の子であり、成功が約束された人です。わたしは、人間としても彼女を敬慕します。
―――アリソン・クラウス

 シェラ・ハルは間違いなくわたしのお気に入りのマンドリン・プレイヤーだ!ソロを組み立て、あらゆるシチュエーションに対応していく彼女のアプローチは、ボーカル・ナンバーであれインストゥルメンタル・ナンバーであれ、年齢を遥かに超越したもので、いつもただただ驚かされてばかりだ。熱心にいい音楽を演奏し、創り出そうとしているフレッシュな若いプレイヤーを聴くのは、いつであっても素晴らしいことで、シェラ・ハルはいつまでもわれわれみんなが聴き入り、見習おうとトライするであろうプレイヤー、シンガーになることをわたしは確信している。もし君がマンドリン・プレイヤーで、まだシェラ・ハルを聴いたことがないなら、すごい楽しみが待っているよ。そう、マンドリンをもって、思いつく限りのリックをかきだす用意をするんだ。わたしはそうするよ!彼女は真のインスピレーション、それにすごくいい人なんだ!!!彼女のことを友人といえることが嬉しいし、君はこのレコーディングが好きになるだろう。
―――アダム・ステフィ

 アルバム『Secrets』でシェラ・ハルはバンドを権威を持ってリードしている。彼女のボーカルはメロディに的を絞りながら、苦もなく的確にポイントをついている。マンドリン・プレイはスムーズで、正確で、そしてまぎれもなくつかみどころのないものだ。彼女の緻密で機敏な演奏は驚くべきもので、音楽的に成長していくだろうそのポテンシャルは物凄い。シェラが次にどんなことをやってくれるのか、とても待ち遠しい。しばしば、優れた才能がやってきて、われわれはじっと座って注目することになる。そのときがいま、シェラ・ハルなのだ。このCDは素晴らしい!!!HULLACIOUS!!!
―――サム・ブッシュ

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